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2015年6月13日「ギャーギャーギャー第5回公演『金盞花』」





感想はもちろんのこと、考察も個人的なもののため鵜呑み丸呑みにはしないでください。

ストーリーの紹介とは異なるため、見た人にしか分からない内容になっているかもしれません。伝わればラッキー。

つるとんたんで行われたアフタートークの様子も若干含まれています。



寺田 守谷日和
片瀬 近藤(ビーフケーキ)
雄二 酒井(ジソンシン)
エビ 山名(アキナ)
間口 帽子屋・お松

この話の結末は、登場人物の心境の変化・内面的な成長が招いたというよりかは、各々が以前から持ち合わせていたものが、お互いのちょっとした関わりをきっかけに溢れた結果なのだと思います。
持ち合わせていたものは、話の中で肥大したのではなく、すでに後戻り出来ない状態のものたちで、溢れ出るのも時間の問題だったのかもしれない。
そうして転がっていく様を、見届けたような感覚でした。
けれどその持ち合わせていたものと、転がっていく様を追うのが割と難しくて、脳内で整頓しているうちに話が終わってしまい、一種の儚さと慌ただしさみたいなものを感じました。
鑑賞した客に判断を委ねる。脚本に余白があるというのは、とても楽しいです。
そこで今回は、各キャラクターが内に持っていたものや、それらが溢れ出たきっかけはどこだったのかを自分なりに考察したいなと思い、登場人物を様々な組み合わせで対比させながら掘り下げることにしました。中にはアフタートークで明かされた答えも含まれていますが。

目次
・エビと片瀬
・片瀬と寺田
・寺田と雄二
・雄二と片瀬
・間口と、お松脚本
・被害者と元凶
カレンデュラと金盞花
・憶測と答え合わせ
・他雑記

【エビと片瀬】
アフタートークの前半で、エビはいなくてもこの話は成り立つんじゃないのか?という話題になった。
エビを演じた山名さん本人ですらも、そう言っていて。
確かにエビは一見、ただの道化のようで、ストーリーへの関連性、他のキャラクターに影響を与えるような言動はあまり見られない。
けれどなぜか、エビが舞台上に登場した瞬間、彼はこの作品において重要な意味・核を担っているような気がして、ただ腹を抱えて笑うということが出来なかった。
彼はこの作品で一体なにを託されているのだろうか、そこに興味が湧いた途端、彼のおかしな言動全てが重要な意味を持っているような気がして、眉間に力が入った。

エビは、カエルが大好きだ。ただ愛でるのではない。踏み潰すことに喜びを覚えている。
大好きな片瀬の小説に目を通しながら、足元に転がるたくさんのカエルを、一匹一匹確実に踏み潰していく。
カエルを踏み潰すというアイディア自体は山名さんが出したもの。
単にその図がおもしろいから提案をしたのか、それとも別に意味があるのか…そこまで語られることはなかったものの、脚本演出のお松さんは、このカエルの案から”警戒色”を物語に結び付けようと思いついたという。

けいかい-しょく【警戒色】
周囲の色に比べて目立つような色彩や模様をもつ動物の体色。ハチ・毒蛇などで、有害・悪臭の動物に多い。

エビが愛読するファンタジー小説カレンデュラ』の作者 片瀬は、17歳のときに殺人を犯し、10年間刑務所に服役していた。
その獄中で書いた小説『カレンデュラ』が、この度イクタガワ賞を受賞。
そんな片瀬はあるとき担当編集の間口にこんな言葉を投げかけている。
「警戒色って、知ってますか?」
殺人に手を出した当時の片瀬の服装は、赤いシャツ、黄色のパンツ、緑の髪に、紫のサングラス…片瀬はこれらを自ら警戒色と呼ぶ。
「自分の中にある毒を、抑えられる自信がなかったんです」
わざと奇抜な格好をして、他人を寄せ付けないよう振る舞っていたという17歳当時の片瀬。
しかしそんな彼に近づいたのが、殺人事件の被害者となる人物、江川優子だった。

江川優子の殺害理由について片瀬は、物語の序盤で「ムカついたからや」と答えている。
また警戒色の話を交えながらの際には「(優子が自分に)近づいたから」と話す。
どこか重要な箇所が抜けているのではと聞き返す間口だったが、片瀬にとっては十分な説明文句だったらしい。
片瀬からすれば、事前に発している危険信号に臆することなく近づいた優子へ、自分の毒が向いてしまうのは当然であったのだろう。

「もっときれいなカエル踏みたいな」とつぶやいていたエビは物語の終盤、片瀬が警戒色の例えに用いたヤドクガエルを発見する。
彼にとっての”きれいなカエル”とは、いわゆる警戒色にあたる派手な色をしたものらしい。
大好きなきれいなカエルをついに手に入れたエビは、そっと撫で、頬ずりをし、愛おしさのあまりか口に含む。
そしてなんとか興奮を抑え、息を整えると、ヤドクガエルをしっかりと踏み潰した。
息を詰めて果てる様が自慰行為のようで…これが彼にとっての快楽だったのだろうか。

ヤドクガエルは猛毒を持つ生物である。
無暗に猛毒へ触れたエビは、いたましいことにも命を落としてしまう。
ヤドクガエルの毒やられたエビと、片瀬の毒にやられた優子。
最初から危険だと信号を発しているものに自ら興味を持ち、あえて近づいたことで結果的に命を落とす。
二人のリンクが、この作品におけるエビの存在意義を証明しているような気がした。


【片瀬と寺田】
ギャーギャーギャー第5回公演『金盞花』自体は、片瀬の受賞会見に、優子の当時の恋人寺田が乱入してくるところから始まる。
怒りに任せて怒鳴り散らす寺田を片瀬は余裕の表情で抱き寄せると、こうささやいた。
「これ以上株を下げないでください」「あなたのですよ」「今、世間は僕の味方です」
自らの警戒色について間口に語り始めたり、四面楚歌のような記者会見でも取り繕うことなく挑む片瀬の姿からは、妙に己を客観視しているという印象を受ける。
しかし冷静に自分とその周囲を見ていても、優子の殺害については周囲の納得を得られる説明がなく、その妙なズレが彼の異常性をさらに色濃く感じさせた。

「注目を浴びるためならなんでもする」
そう語る片瀬の精神は、10年の時を経ても17歳のままなのではないかと思えてくる。
社会復帰の手段として作家の道を選び、そこで成功するために計算高く作品を書き上げた片瀬。しかも殺人をおかした元少年が小説を出版するというだけで注目度は高いのだから、それをも狙って小説の書き方を勉強したというのなら、もう彼の”注目”への執念は相当なものだ。
記者会見会場でフラッシュ音が鳴り響く中、寺田に「ありがとう」と投げかけたのも、”今以上に注目を集める材料となってくれてありがとう”の意に捉えられなくもない。

ちなみに小説の勉強をした、というのはアフタートークで明かされた部分。刑務所内には蔵書が多くあるそうで、片瀬はそこで小説を読み漁り、世間に受ける作品、審査員に受ける作品の傾向を自分のものにしたのだとお松さんから解説があった。
行動そのものは非常に難易度の高いことをやってのけているのにも関わらず、その行動理由はどこか幼い。
幼さに筋が通っているというのはとても恐ろしいことなのかもしれない。

そんな片瀬に苛立ちを隠せないのが、被害者優子の恋人だった寺田である。
殺人を犯したにも関わらず、たったの10年で出所。そして小説の執筆と賞の受賞。片瀬の現状と態度に納得していないのは明らかだった。
ただ適当に謝罪の言葉を並べられたくらいでは腹の虫が収まるはずのない寺田に、片瀬は「死ねってこと?」と涼しい顔で聞く。すると寺田は「そこまではせんでも」とどこか尻込みをしてみせる。
「申し訳なさそうに生きろ」「せめて俺よりは不幸であって欲しい」この絶妙な枷を要求する寺田からは、彼女の死を悼むのとはまた違った別のニュアンスも感じ取れる。
そして会話を重ねていくうち、片瀬に「なんや、嫉妬か」とはっきりと言葉にされ、そこで初めて自分の意思をきちんと表立たせている。
寺田は、恋人を殺されたことを片瀬に謝罪してほしいのではない。
自分には、恋人を殺害されたことで関係者の肩書きを10年…今後もずっと背負わなくてはならない事実がある。それなのにも関わらず、完全に解放されたような顔で再び人生を歩き始めた片瀬に、怒りに似たうらやましさを感じているようだった。


【寺田と雄二】
寺田が片瀬の記者会見に乗り込んだことを、大いに喜んだ人物がいる。
殺害された優子の、弟 雄二。姉の死から10年、未だ喪服を脱げずにいる。
それほどまでに姉を弔う気持ちが強いのは観客の同情を惹きつけるのにも十分で、遺族の会で片瀬の本を片手に、彼を許してはならないと訴えるシーンではその熱量に圧倒され、こちらも心苦しさを覚えるほどだった。

世間が注目するのは“元殺人犯がイクタガワ賞を受賞”という話題だけで、被害者や被害者家族への注目度はすっかり低い。
そのことに納得出来ないでいた雄二は、寺田の記者会見乱入で再び事件の話題が日の目を浴び、特に遺族の主張に世間の興味が向いたことを、大変喜んでいた。

トップニュースだとか、検索ワード1位だとか…姉の巻き込まれた事件にスポットが当たるのをうれしく思うのは分からなくもないが、それにしても喜びすぎじゃないか?というのが真っ先に出た個人的な感想。
私の中にある”遺族”の像は、悪目立ちを避けるイメージがあり、加害者に反省の意を強く求めることはあっても、ただ事件が注目されることに固執する遺族は少ないのではないかと感じたからである。
後にこの違和感が間違いではなく、実の狙いのさらなる恐ろしさに大変なショックを受けることになる。

姉の死を悼む心を忘れてはならないと、雄二は、週に一度スタバで寺田に優子の思い出を語るのが習慣になっていた。
この日は七五三の写真を持ち出し、その時の情景を事細かに寺田へ説明している。
当時は姉ちゃんが鳩に襲われて…という話から、姉を守ることが出来なかったと事件の話へ感情的になっていく。どうやらこれが彼のパターンのようだ。
ベンティーやカスタムなど、スタバの高いメニューの支払いを任された寺田のテンションは低いが、なりふり構わず店内で感情的になる雄二をなだめる様子からは面倒見のよさも窺える。
しかし雄二が事件について自分たちは「同じ遺族」「一緒っすよね」と振ると、寺田は「俺と雄二くんとじゃあ、ちょっと違うと思うけどな」と、尻すぼみになりながらも若干の否定をしてみせた。ところが雄二はこの寺田の僅かな主張に、ほとんど耳を貸さなかった。

事件が起こって月日が経たぬうちは悲しみも深い。しかしどんな事象も風化は止められない。
ましてや寺田の場合、優子との恋人関係は17歳当時のたった2週間である。
被害者の弟と2週間の恋人では、時の流れとともに熱量が変わってくるのも無理はない。
しかし雄二は寺田を「義兄さん」と呼び、家族及び同じ遺族であることを、どこか強要しているようだった。

実際、雄二と寺田の意識の差はあまりにも大きかった。
差以前に、雄二自身が遺族の心を忘れないでおこうとする本当の狙いは、すでに一般的な基準から外れたところにあったのだ。
姉の死を弔い続け喪服を脱がないでいる雄二は、いつのまにか”遺族”であることが絶対に己から切り離せないアイデンティティになっていた。
「遺族って最強なんですよ」
完全に怯えている寺田に対しても容赦なく、”遺族”の肩書がいかに素晴らしいものか熱弁する雄二の目は、恍惚とした様子に染まっている。
会社を休んでもいい、失敗をしても許される…「かわいそう」「気の毒だ」と気に留めてもらえる。
周囲の同情の視線が、彼の歓びになっていた。そして自分よりかわいそうは人が許せなかった。いつだって自分が一番かわいそうでなくてはならなかった。
遺族の会で姉の死と片瀬について熱弁を繰り広げ、浴びる拍手に震える雄二の表情は、アイデンティティが満たされた歓びと快感で恍惚としていた。

もっともっとと同情を欲する雄二は、嫌がる寺田を遺族の会へ連れてゆき、そこで姉の話をして周囲の注意を引くよう強要する。
しかしすでに雄二の異常性を察してしまった寺田はその場から逃げ出す。その寺田を追う雄二は、弔いの心を忘れないためだと10年間着続けた喪服のジャケットを、ついに脱ぎ捨てた。
姉の為だという建前を放り出し、彼はただ己の勝手なアイデンティティを満たすためだけに行動していた。ジャケットはその象徴だったのだろう。

このジャケットを脱ぐというシーンは本番の直前に決定したらしい。他の役者陣はこの変更を聞かされておらず、本番中に「脱いでるやん!」と若干の戸惑いもあったものの、結果的にはとてもよい演出だったねと言葉を交わしてた。
個人的にも、これは追加されて本当に良かったと思っている。この描写があることで、雄二が本来抱えていた行動目的が、何であったかを確信して見られたからである。


【雄二と片瀬】
記事の冒頭で、劇中キャラクターには内面に変化や成長はあまりないと述べたが、片瀬に関しては1つ大きな変化があった。前半はエメラルドグリーンの鮮やかなパンツを着用していた彼だが、後半にはそれが白になっている。
犯行当時の片瀬は赤黄緑紫などの派手な警戒色を纏っていた…という話のあと、間口は個人的にこんな質問をしている。
「今はその毒っていうのは・・・?」
黒いシャツ・白のパンツを示し、片瀬は「地味でしょ」と笑う。
「安心しました」と胸を撫で下ろす間口に、今度は片瀬が質問をした。
「一番派手な色って何やと思います?」
赤や原色系ではと答える間口に、片瀬は口元に笑みを浮かべながら、自らが思う正解を口にする。
「白と、黒ですよ」

片瀬がそれまで警戒色にしていた原色を捨て、白と黒が最もそれに相応しいと考えを変えたのには、雄二の喪服姿の影響が大きいのではないかと思う。
片瀬のサイン会に雄二が現れた際、その姿を一瞥し「喪服・・・」と馬鹿にしたように含み笑いをしているシーンがある。雄二はこれに対し「お前の葬式に出るためや」と反論しているが、片瀬はこの時点ですでに雄二が喪服であり続ける本当の狙いを察していたのかもしれない。寺田が自分に嫉妬心を抱いているのを見抜いたように。

雄二が人の気を引くために喪服を貫いているのだと察したとすると、片瀬は喪服が持つ白と黒のインパクトに着目をしたのではないかと考えられる。
注目を集めるため自身の背景も込みで考えた場合、今最も派手な色と言えるのは白と黒だったのだろう。自分がいいなと思ったものを素直に取り入れる様は、やはりどこか子どもじみているような気がした。

ジャケットを脱ぎ捨てた雄二から逃げる寺田の目の前に、片瀬が現れた。黒いシャツに白のパンツの片瀬。
白のシャツに黒のスラックス姿である雄二に怯えていた寺田は、同じ色を反対にまとった片瀬に出くわした途端、驚いて腰を抜かす。
「ややこしいかっこすんなや」
そこに、雄二が追いついた。

片瀬の処女作『カレンデュラ』は”元殺人犯が獄中で執筆した”にも関わらず、その内容は美しいファンタジーである。これもまた寺田の神経を逆撫でした要因の一つ。雄二も遺族の会で演説をする際にこの折に触れ、許し難いと熱弁をしている。
しかし片瀬は鉢合わせた雄二に、こんな提案をした。
――次回作は事件のことを書こうと思う。加害者と、遺族の目線から。作品発表の記者会見にも出て欲しい。だから協力しようではないか。
片瀬はこの時点で完全に、雄二の行動目的を見抜いている。遺族として注目を集めたいという、彼にとっての全ての行動目的を。

片瀬にとっても、2作目からはイクタガワ賞受賞作家という肩書があり、ハードルは高い。また、世間は”元殺人犯の書く小説”に、必ずしも興味を持ち続けるとは限らない。
そこで片瀬が考えた次なる注目の集め方は、満を持し、事件について自ら筆を取ることだった。
現状以上に10年前の事件がフューチャーされ、そこには”遺族”のことが描かれる…雄二にとってもこれ以上ない絶好の条件。
込み上げてくる笑みを隠そうともせず、雄二は片瀬にぜひ事件のことを書いてくれと同意を示した。

意気投合を始めた片瀬と雄二に、寺田は「俺から見たら、お前らなんか一緒や」と喚いている。
加害者と遺族、正反対に位置にいるはずの二人。
黒と白、白と黒…対の存在でありながらも、二人は同じ色に染まっていた。
そして二人は早くも3作目を見据えた話をしている。どんな事柄であっても風化を止めることは出来ないと、二人は知っているのだ。しかしそれは計算高くありながらも、まるで興味の風化を何より恐れているようで。
2作目で事件の話を書けば、10年前に関して注意を惹く材料はそれっきりである。姉の死から遺族であり続けた雄二も、さらなる肩書きを欲していた。
「新たな遺族が必要ですね」
片瀬と雄二の二人は傍で怯えている寺田を見据えると、にやりと笑みを浮かべた。


【間口と、お松脚本】
片瀬の担当編集を勤める間口という人物は、この作品の中では最も自立した存在で、誰の影響も受けていない。トークで「一番筋が通っているキャラクターは誰ですか」という問いに対し、お松さんが彼の名前を挙げていたのにも合点がいく。

お松さんの書いたお芝居を見たのは、これが3回目。つみぎと、オフ・オフ・ブロードウェイの4シーズンズと、今回の金盞花。
見てきた数はけして多いとは言えないが、この3作品全てに共通している演出がある。
物語の中盤に、突如ミュージカルの如く音楽が流れダンス…というよりかは、登場人物たちが行き交うダイジェスト的な表現を含んだシーンが入るのだ。
この演出が入るタイミングについて自分なりに考えてみたところ、登場人物たちが何か大きなことに巻き込まれたり、とにかくストーリーがひとつごろんと転がり始めるきっかけに用いられているのではないかと思い当たった。
今回の金盞花の場合は、間口の持ち掛けで寺田が本を執筆することになったのが、そこに当たる。

お松さんの描くキャラクターたちは、必ず当人たちなりの正義や一貫した筋があって、たとえ世間一般から外れたところにその筋があっても、彼らはそれを基に突き進んでいく。
だから話がどんなに後味の悪い形で終わってしまっても、「誰が憎い」とか「アイツがこうしていなければ」だとかはとても言いにくい。それぞれ自分の信念に従っただけだもんね・・・と感情がぐるぐるする。その感覚が好きだから、またこの人の作品を見たいと思える。
…それがダンスのシーンとどう関係あるのか、について。
観劇後のぐるぐるとした感情を、あえて誰かに責任転嫁するとしたら、誰が相応しいのかと考えたとき、そうだダンスのシーンに入るきっかけになった事象そのものを提案した人にしてみようと思いついた。
寺田に執筆の提案をしたのは間口・・・よし、間口を恨んでみようと。

間口は10年前の事件の加害者でもなければ、被害者でもない。
ただの片瀬の担当編集。しかし彼の言動にも、わずかながら違和感を覚えるシーンはあった。
片瀬や雄二の頭がおかしいのは見ての通りで、アフタートークでもそこに関する質問は多かった。けれど今更になって、間口という人物についてもっと知りたかったのかもしれないと思うようになった。

間口は寺田に、本を書いてみないかと持ちかける。被害者家族よりも、その恋人のほうが世間の注目は高いに違いないと寺田を説得、雄二の後押しもあって寺田は筆を取ることを決意する。
この時点で間口は本の話題性についてしか触れていない。寺田や雄二の立場になっての提案ではなく、あくまで売れ行き・話題性に重きを置いているようだった。

小学生時の絵日記程度しか文章を書いたことがなかった寺田の本は、その内容のなさから、恋人の死を売名に使ったと世間から非難を浴びる。あれほど片瀬の小説には夢中になっていたエビも、寺田の本は買う価値もないと怒り狂っている。
ネット上では寺田の個人情報まで拡散され始め、こんなことになるなら書かなければよかった、こんなはずじゃなかったのにと寺田は頭を抱えた。
しかしそんな寺田を尻目に、これは宣伝になるぞと興奮を抑えられないでいるのは、間口だった。

片瀬は「注目を浴びるためならなんでもする」と語っていたが、間口もその類いの人間であると言っても過言ではないと思う。
片瀬の小説が『カレンデュラ』であるのに対し、寺田の本は同じ花の名前『金盞花』。ただインパクト、注目度のためにこのタイトルを寺田に提案している。
この公演のタイトルが『カレンデュラ』ではなく『金盞花』であるのは、それだけこの本の出版が物語のターニングポイントであったことを示しているのではないだろうか。

片瀬のような狂気性はなくとも、彼もまた、自分が思い描く像へ近づくためならその過程で発生する犠牲やリスクを厭わない人間性なのかもしれない。
まだ狂気性がないおかげか、幾分かはまともな人間であると扱われる。なんだろうな、ずるい。ずるいぞ間口。


【被害者と元凶】
遺族であることがアイデンティティになっていた雄二。
彼がそこに固執するようになったのには、人格を形成していく中で必ずなにかしらの欠陥が発生したのだろうと考えた。いわゆる”飢え”である。
これについてもアフタートークでお松さんから解説が。
そもそも雄二の姉 優子は、近所でも目立った存在の人間で、雄二自身は「優子の弟」として認識されていることのほうが多かった。しかし優子が殺害されたことで周囲は、雄二個人を「気の毒に」と気に掛けるようになる。
これまで他者からの認知に飢えを感じていた雄二にとって、周囲の同情の視線は初めて手にしたアイデンティティだったのかもしれない。

優子はいわゆるサブカル女子で、また個性的であることを自覚し、それを自ら楽しんでいる節もあったのだろう。
あからさまに異彩を放っているものは放っておけず関わりたくなってしまう。関わっている自分が魅力的…そんな彼女の視界に入ったのが、当時警戒色を纏っていた片瀬だった。

己の毒について客観視をしていたり、他人を見抜く洞察力のある片瀬でも、優子の行動目的は理解しがたく、どう扱うべきだったのかも分からなかったのかもしれない。
自分とは全く違う生き方の優子が、無暗に距離を縮めようとしてくる様に片瀬は苛立ちを隠せず、殺害に至ったのではないだろうか。

優子は10年前の事件の被害者ではあるが、片瀬の殺人行動や、雄二のアイデンティティにまつわる異常性、そして寺田が強いられた”関係者”という立場…これらすべての始まりであるともいえる。

彼女もまた、この物語における「あいつがこうしていなければ」の候補である。


カレンデュラと金盞花】
ところでエビは片瀬の小説『カレンデュラ』のどこに惹かれ、そしてなぜ寺田の本『金盞花』には買う価値もないと判断したのか。
エビのキャラクターからして、彼は文法やストーリーがどうなどと小難しいことを気にするタイプとは思えない。彼なりに作品を見定めるときの独特の基準があるのかもしれない。
やはり、片瀬の作品からは警戒色の匂いがしたのだろうか。
片瀬自身はカレンデュラを執筆する際、審査員に受けるどうかを軸にして文章を紡いでいる。しかしそこには隠し切れない警戒色、毒の匂いが染み付いていて、それがエビにとっては魅力的で仕方のなかったのかもしれない。
そして寺田の、小学生の絵日記のような文章からは毒の匂いはしなかったのだろう。
だから彼は寺田の本を、買う価値がないと判断したのではないだろうか。

あえて事件のこととは全く異なるファンタジーを描いたのは、賞に狙いを定めたのと同時に、時間が経てば世間が自分への興味を失っていくことを見越し、そのとき再び注目を集めるために事件の話題を温存しておこうという考えがあったからではないのだろうか。そしてそこに雄二を巻き込むことが出来ると気づいた片瀬は雄二に話を持ちかけた。
片瀬の「注目を集めるためなら~」の発言は、彼のあらゆる行動理由を裏付けるのには十分すぎる表現だ。

また片瀬には自身の中で、自らをこう見せたいという像がある。
寺田が執筆した『金盞花』には、雄二とのスタバでの出来事が絵日記レベルで描かれているだけだが、片瀬はこれを読んだ感想として「3回泣きました」と述べている。
もちろんそれは嘘ではあるのだが、そう答えることで”変わった感性をしている”と気を引くためにアピールをしているのだと、ボケのような一言にもお松さんは解説をくれた。

片瀬の狙い通り「え?どこがですか?」と聞き返す間口。それに対し片瀬は「人生、ですかね」と答えた。確かに寺田の人生は、雄二ともに遺族の肩書を背負わざる得ないものになってしまっている。『金盞花』に綴られたスタバでの情景は、10年前を境に様変わりしてしまった寺田の人生を象徴しているようにも思えた。


【憶測と答え合わせ】
ラストシーンは、ヤドクガエルの毒にやられて命を落としたエビの葬儀会場。
遺影の前で泣き崩れているのは、喪服に身を包んだ雄二。縁もゆかりもなかったはずのエビを、遺族たちの前で親友と呼ぶ。
ひとしきりお悔やみを述べた雄二は、突然ぴたりと静かになるとゆっくりと顔を上げた。
「ところでわたくし、遺族の会というものを運営しておりまして…」
咲き乱れる金盞花を背に、笑みを浮かべる雄二。
エビの死すらも利用するその姿は、これからも続く”遺族”の連鎖を思わせる。かつての姉の死を、自らのアイデンティティにしてしまったように。

最後にして、最も疑問が残るのがここだった。直前の、片瀬との意気投合で雄二の止められない執着は十分表現されていたが、その後の寺田の安否に関しては多少の憶測が必要になっている。
「新たな遺族が必要」という言葉が、雄二自身をさらなる”遺族”として更新させるという意味ならば、雄二が「義兄さん」と呼ぶ寺田の死は、それを実現させるに最適である。
けれども、見た人によっては、必ずしも寺田が殺されたのだと思っていない人もいるはずだと予想している。寺田を演じた守谷さんは「遺族の会に入会させられたのでは?」と推測していたようで、私もどちらかというとそちら寄りの意見を持っていた。
その後すぐに「あれは殺されただろう」という大多数、そしてお松さんの発言があったため、前者が正解に近いことに間違いはないのだが。

しかしこのように、役者自身もその後どうなるのか知らされていない状態でその役を演じるというのは、不安感などのリアリティを追求する上ではとても効果的な手段であるといえる。
それにしても今回は脚本に余白が多かったので、公演後にトークライブで答え合わせが出来たのは、本当にありがたい試みであったなあと心の底から思った。

そのアフタートークでは、客からだけでなく、演者からも脚本についての質問が度々あった。例えば「雄二のような遺族が実在すると思ってこのキャラクターを書いたのか、ただ異常性を描くために作り出したキャラクターなのか」という山名さんの質問。それに対しお松さんは「実際にいると思う」と答えている。
作品の傾向だけでなく、中の人たちの物事の捉え方についても知ることが出来る、大変興味深い数時間だった。


【他雑記(後日追記するかも)】
17歳の片瀬はもちろんだが、その家族にも支払い能力がなく、優子の遺族には賠償金が一切支払われていない。片瀬は一体どれくらいの生活水準にいたのか。そしてそれが片瀬の人格形成に影響した可能性はあるのか。
…ここまで掘り下げてしまうとキャラクターをあまりにも現実的に捉えすぎて話を楽しめなくなるので、今はこの段階にとどめておこうと思う。しかしこれに関してもお松さんの中で答えがあるようなら、非常に興味深い部分ではある。
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前々回の『亀触った奴は黙ってろ!!』の際、”酒井さんは実際の立ち位置と目線・発声の距離感が若干ちぐはぐなので、それが活かされる役があれば”という旨を感想の中に綴っていた。
まさに今回の雄二という役は、その距離感のちぐはぐがぴったりハマっていたと思う。相手の目を捉えているようで心的な目線が合っておらず、自分の思いの丈だけをひたすらに語るところが。
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ギャーギャーギャーのメンバーの選出について、お客さんから質問があった。
お松さんの説明によると、社員さんがお松さんに芝居をやってみないかと持ちかけたのが始まり。その時点で社員さんの推薦があった守谷さんは確定。あとの3人(山名さん/近藤さん/ナターシャさん)は、お松さん自身が一緒に芝居をしてみたいと思った人たち。決して演技力・表現力がどうといった基準で選んだわけではないらしい。
後に色々な人から言われるようになった言葉で、お松さんもいいなと思い使っているのは、”色気”のある人たち。

ナターシャさんが上京に伴って一旦メンバーから抜けることになった際には、5人で新たなメンバーを決めたそう。候補にあがった若手芸人は計10名前後。しかし酒井さんの名前が挙がった途端に、その10人は候補から消えた。
ナターシャさんの演技が大好きらしいお松さんでもきっと気に入るはずだと、他の4人が酒井さんを推薦し、第三回公演からは酒井さんが舞台に立つことに。

これは独り言のようなものだが、確かにお松さんのナターシャ大好き度は結構なものだと思う。演者として本当に信頼しているという点で。会話の端々からそれがにじみ出ている。
私自身、『つみぎ』でナターシャさん演じる正三が見せた、無自覚で無邪気な狂気は未だに忘れられないし、どうしてもっと早く知っておかなかったのだろうとずっと後悔をしている。第一回公演の『ロマンチック』も見たかった…!

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序盤から会話のところどころにわずかな違和感たちが紛れていて、ストーリーを掴んだ2回目からは、ここにも綻びがあったのか!と感心させられてばかり。
あちこちにある微量の違和感をちまちま拾っていくのが楽しかった。
ただ1回目も2回目も、それらを噛み砕いている最中にいつのまにかラストシーンに辿り着いていて、待って待ってと焦りが生じた。しかしそれは登場人物たちの止められない行動目的を体現しているようで、却ってよかったのではないかとも思う。

何度も見返して噛み砕いて…が出来る作品とはなかなか出会えない中、ここまで考えられたのは本当に楽しかった。つみぎから1年とちょっと、またギャーギャーギャーの公演でお松さんの脚本演出を見られたのはやはりうれしい。

これから先も、このギャーギャーギャーという演劇ユニットのことは、ほぼ宗教レベルで大好きなのだろうと思う。それよりもまず、お松さんの脚本演出が好きすぎる。お松さんの頭の中には、キャラクターそれぞれの背景まできちんと描かれているところが。

今回もそれらを確信した公演でした。

ご意見ご感想ございましたら遠慮なく。
長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。


個人的に1番好きなオフショット写真

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